ゆゆ式 キネマシトラス 2013 |
監督:かおり |
原作:三上小又 シリーズ構成:高橋ナツコ 音楽:EXIT TUNES キャラクターデザイン:田畑壽之 キャスト:大久保瑠美・津田美波・種田梨沙・堀江由衣・茅野愛衣 |
高校時代、ちょっと変わったクラスメートがいました。
彼は高校を、「大学への通り道」と考えるタイプの学生でした。関心は大学受験のみ。それ以外のことは、すべて無駄と考えていたようです。私が同じクラスになったのは2年生のときだったのですが、そのときから既に受験に必要のない科目の勉強は放棄していました。授業中は寝ているか、受験に必要な科目の勉強に充てていましたね。
授業ですらそんな状態ですから、学校行事なんてなおさらです。すべてにおいて、興味なし。準備の段階からこれ以上ないというくらい消極的で、文化祭も体育祭も当日はしっかり欠席していました。
ただまあそのくらいなら、似たようなことをやっている生徒は他にもいました。受験に必要のない科目は捨てるという姿勢は、程度の違いはあれ多くのクラスメートに見られましたし、行事についても、元々がそんなに盛んな学校ではないということもあって、熱意を持って取り組んでいる生徒の方が少ないくらいでした。
じゃあなんで、その彼のことだけが強烈に記憶に焼き付いているのかというと、彼の「超合理主義」は徹底していたからです。何と彼、高校生活最大のイベントである修学旅行にも来なかったんですよね。これはさすがに驚きました。大学受験第一主義を標榜しているクラスメートたちでも、そこまでやる人はいなかったですからね。「さすがディオ!おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる あこがれるゥ」というやつです。いや実際のところ少しもあこがれはしていないんですが、そこまでやるか、という思いはありました。修学旅行っていったって、せいぜい四泊五日の旅行ですよ? その期間を受験勉強に充てたからって、そんなに成績は変わらないと思うんですけどね。
でも彼は、そうは考えなかったのでしょう。「大学受験に合格するために、必要なことにだけ時間を使う。他はすべて無駄だから、切り捨てる」という揺るぎない信念みたいなものが、ひしひしと感じられました。
『ゆゆ式』は他の日常系と違う?
ここまで、思い出話でした。
ここからが本題『ゆゆ式』について、です。
本作で特に印象的だったのは、「何の意味もない会話がひたすら繰り返されている」というところでした。この作品で描かれているのは、ゆずこ、縁(ゆかり)、唯という三人の女子高校生たちの日常なんですが、彼女たち、おしゃべりしかしていないんですよね。
いや、もちろんわかってます。本作が「日常系」とか「空気系」とか呼ばれる作品の一つで、そうしたゆるさを楽しむのがこのジャンルの魅力であるということは。「おしゃべりしかしていない!」という批判が、的外れでしかないことは百も承知です。
ただ、私が知っている『あずまんが大王』や、『苺ましまろ』『ひだまりスケッチ』『みなみけ』『けいおん!』といった日常系の他の作品たちと本作は、何かが違うように感じました。それが一体何なのか。穴が開くほど画面を見つめて、気が付きました。
部活と休日の過ごし方です。
『ゆゆ式』で描かれる部活動と休日
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「おしゃべりしかしていない」と評させてもらったゆずこ、縁、唯の三人ですが、実は部活動はやっています。彼女たちが所属しているのは「情報処理部」。社内ニートばかり集めた大企業の部署みたいな名前の部ですが、実態もまたその名を裏切るものではありません。主な活動は、校内の一室を占拠し、そこに設置された二台のデスクトップパソコンを使ってネットサーフィンをする、というもの。実に、窓際族をほうふつとさせる活動内容です。
所属している、と格好つけて書きましたが、実際のところ部員はゆずこたち三人だけです。やっていることも、授業の合間の休み時間と大差ありません。違いはインターネット環境があるくらいですね。一応、適当に思いついた言葉をテーマに設定して検索し、出てきた内容についてこれまた中身のない会話を交わした上で、結果を「まとめ」としてホワイトボードにを書き残す、という活動めいたものをしてはいるのですが、まあお情け程度です。
おそらくほとんどの人がそう感じたように、とても部活動と呼べるような代物ではありません。部室で無駄話をした挙句、ホワイトボードに落書きを残しているだけですからね。
そしてこれは、休日についても同じです。
ゆずこ、縁、唯の三人が休日を過ごす場所としてしばしば登場するのが、唯の家です。唯の家、もう少し突っ込むと唯の部屋になるのですが、そこで何が行われるのかというと、何も行われていません。やっていることは部活と同じで、おしゃべりです。唯の家以外の場所で過ごすケース、例えば夏に海水浴に行くエピソードなどもなくはないのですが、レアです。基本は「唯の家で、無駄話をして過ごす」です。
わかってます。「無駄話」と切って捨てたその会話にこそ、『ゆゆ式』という作品の魅力が詰まっているのだ、ということは。その点に異論はありません。
ただ、少し見方を変えると、この時間の使い方、すごくもったいないようにも思えるんですよね。高校時代という、若く貴重な時間を、無駄話をすることだけに費やしてしまっているように見える。それも授業の合間の休み時間とか、登下校の最中ではなく、放課後や休日といった、何かをやろうと思えば十分できるはずのまとまった時間を、です。
ゆずこ、縁、唯は、おしゃべりしているだけで何もしない。その間にも、時間はどんどん過ぎて行ってしまっている。もっと何かした方がいいんじゃないか。一度しかない高校生活を、無駄話だけに費やしてしまっていいのか。そんな風にも思えてきてしまうのです。どこにもつながらない、何も生み出さないおしゃべりは、時間をいたずらに浪費してしまっているようにしか見えません。
「有意義な時間の使い方」とは
そんなことを考えながら本作を見ていたときによみがえってきた記憶が、最初に紹介したクラスメートでした。彼、実はゆずこたちと対極にいる存在なんじゃないかと思ったのです。
大学受験という、将来につながることにだけ時間を使うことを考えて、それ以外はすべて無駄と切り捨てたのが元クラスメートでした。彼は、「役に立つことにしか時間を使わない人」だったのですね。
一方ゆずこたちは、この逆です。何も生み出さない無意味な会話ばかりの彼女たちは、「役に立たないことにしか時間を使っていない人たち」でした。
どちらも極端です。普通は「それだけ」というのではなく、「役に立つ時間もあれば、そうでない時間もある」ものですからね。しかし「時間の使い方」という観点で見たとき、どちらがより有意義に見えるのかというと、これはやはり元クラスメートの方なんじゃないか、とは思いました。ゆずこたちのおしゃべりは、はたから見ている分にはおもしろいかもしれませんけど、生産性はゼロです。言ってしまえば、無為な時間なんですよね。
ただ、ではこの時間がまったくの無価値かというと、これがまたそうとも言い切れないとも思いました。
後になって懐かしく思い出すのって、実はゆずこたちのしているような無駄話の時間だったりするからです。
これについて、実は作品の方で自覚しているようなところはあります。だらだらと無駄話をしているだけの自分たちを省みながら、「こういう時間が大事」という場面があるんですよね。実に、的を射ています。
「何かにつながること、役に立つこと」だけが、有意義というわけではない。
月並ですが、改めてそんなことを思い出させてくれる作品でもあったように思いました。