『世界征服〜謀略のズヴィズダー〜』というアニメを見ていたら、こんなセリフが出てきた。
「世界はすっかりおかしくなっちゃった。こんな世界でもまだ欲しいの、ケイトちゃん?」
テレビの前で、僕は思わず目を剥いた。この作品が、世界征服を目論む秘密結社の活動を描いたものだったからである。
「ケイトちゃん」というのは本作のヒロイン、星宮ケイトのことだ。彼女は可愛い幼女の姿をしているのだが、その正体はズヴィズダー首領「ヴィニエイラ様」なのである。
秘密結社が征服を目論むくらいだから、本作における「世界」とは非常に価値のあるものなのだ。だからこそ征服しようとしたり、それを阻止したりしようとする。これ自体は本作に限った話ではなく、現実でもまあ同じだろう。
ところが冒頭のセリフは、そうした「世界は価値あるもの」という前提を真っ向から否定しにかかっているのである。しかもこれが、ズヴィズダーと対立関係にある正義の秘密結社「ホワイトライト」の構成員から投げかけられた言葉というのだから、インパクトは絶大である。
大して価値もない世界を征服しようとしたり、守ろうとしたりしていたのだとしたら、どちらの秘密結社もまったく立つ瀬がない。両者にとって「世界は価値のあるもの」に決まっているし、そうでなければならないのである。だからこそ、劇中でそれを覆されることには、天地がひっくり返るような驚きが生じるのである。
出世に興味がない先輩
このような、前提条件の否定によって生じるある種の「目覚め」は、現実でもごく稀に起こったりする。
仕事で知り合った、ある先輩社員の話だ。その人は仕事はそれなりにできるのだが、出世にはまったく興味がないということを普段から口にしているような人だった。課長になるための試験を受けるよう薦められてもいるのだが、丁重にお断りを入れているらしい。
これ自体はまあ、わからない話でもなかった。課長になったところで、増えるのは給料より責任の方が大きいからだ。ならない方がマシ、と考える人がいたっておかしくはないのである。管理職を目指す気がないなら、出世を望む必要もない。
ただ、その先輩の場合ちょっと不思議だったのは、昔からそうだったわけではないらしい、ということだった。若い頃は、きちんと昇級試験を受けていたらしいのである。実際、その先輩はヒラ社員というわけでもなかった。課長の一つ下の、係長にまでは昇進していたのだ。
この謎を明らかにするべく、僕はある飲み会の席で先輩に質問をぶつけてみた。その夜の先輩は随分とご機嫌でアルコールも進んでおり、いつもより酔っ払っていて舌も滑らかに見えた。
「いや、正直なところ、どうでも良かったのは昔からなんだけどね」と赤ら顔に半開きの目をこちらに向けて先輩は言った。「たださ、この会社って希望してもいないのに、勝手に昇級試験受けさせてくるじゃん? それに従ってただけなんだよ」
これは確かにその通りだった。僕たちが働いている会社では、ある日突然試験の日程が告げられてきて、有無を言わさず受験させられるのである。
「準備が面倒くさいから、ホント言うと受けたくなかったんだけどさ。業務命令だと思ってたんだよ。まあ、会社がそうさせようとするのも、わからないではなかったからね。年齢と経験を重ねた社員に、よりレベルの高い仕事を担ってほしいと考えるのは普通の話だと思ってたからさ」
これもまあそうだろう。入社10年目の社員が新入社員と同じ仕事しかやっていないようでは、会社としては困るはずだ。
「でも、どうもそうじゃなかったみたいなんだよな」と先輩は言った。それから突然、「実はさ、一度は受けてるんだよ、課長試験」と衝撃の事実を告白した。
「どうして課長になりたいの?」
「そのときの面接で聞かれたんだよ。『どうして課長になりたいの?』って。内心『はあ?』って感じだったよね。こっちは一度も『課長になりたい』とも『昇進試験受けたい』とも言ってないんだからさ。いつもみたいに上司から『受けろ』って言われたから受けただけなのに、何言ってんだコイツ、と思ったよ。でもまあ試験だからさ、一応答えたんだよ。『自分の年齢と経験を考えると、社内でそういう役割を求められるようになってきてるから』みたいなことをさ」
しかし、この答えは悪手だったようだ。先輩は「別に求めてないよ」という、メガトン級のカウンターを食らうことになってしまったからである。「会社は別に、君に課長をやってほしいとは思っていないよ」という、残酷な追い討ちまでかけられたという話だった。
それに対して先輩が抱いた最初の感情は、落胆ではなく怒りだったらしい。「じゃあ何で試験受けさせたんだよ」という怨念にも似た真っ赤な炎が、瞬時に心に燃え広がったのだそうだ。
と同時に、冷たい水を頭から掛けられたような思いもしたとも話していた。「昇進試験は受けなければならない」と思い込んでいた。それが会社の求めるところだと思っていたからだ。だから受けたくもないの、受けていた。でもそうではなかった。会社はそんなことは求めていない。すなわち、受けたくないなら受けなくても良かったのだ。その事実に、このとき初めて気が付いたのである。「目覚めた瞬間」だ。
前提条件を真向から否定された先輩は、思い込みから解き放たれて目覚めた人になったのである。
どんな起こし方をされたって、目が覚めればいい
この話を聞いたとき、そのおかしな点に僕は気が付いていた。
先輩に「昇進試験を受けろ」と言った人と、「どうして課長になりたいの?」と言った人は、別であるはずからだ。前者は先輩の上司で、後者は試験官だろう。両者は立場が異なるから、違うことを言ったとしても少しも不思議はないし、怒りを抱くようなことでもないのだ。
でもそのことを、わざわざ指摘したりはしなかった。重要なのは、「昇進は会社が求めていることではなく、受けなくても良い」という気付きを先輩が得た、という事実だからである。どんな起こし方をされたって、目が覚めればいいのである。
その後の人事異動で先輩とは職場が離れてしまったので、今どうしているかはわからない。「目覚めた人」として今も昇進試験を断り続けているのか、それとも変節して試験を受け、課長になっているのか。どんな選択をしてもそれは先輩の人生なので自由だ。
ただ何となく、信念を貫き通していてほしい気はしている。