歴史好きの厄介なところは、歴史が絡む物語にうるさいことである。
と、いきなり主語デカで始めて見たが、もちろんすべての歴史愛好家がそうである、というわけではない。
どんなに史実と違った話が展開されても、満面にたたえたアルカイック・スマイルを決して絶やさず、ありのままに受け入れる仏のごとき精神を備えた方も中にはいるだろう。
一方で、そうではない戦闘力高めの歴史好きもたくさんいる。
ごくわずかでも、「歴史」成分が含まれる物語を見かけたら「史実通りかどうか」のチェックをせずにはいられない。それで違いでも見つけようものなら、鬼の首をもぎ取ってきたかのごとく大騒ぎをするのだ。
彼らの自信はすさまじい。どんなに偉い、その分野の権威と呼ばれるような先生が時代考証を担当していても、「史実チェック」には果敢に斬り込んでいく。
草野球チームの投手がプロ野球の本塁打王に挑むようなものだ、と傍から見ていると感じるのだが、彼らは決して怯まない。
相手がどんな大人物であっても、「自分の方が詳しいに決まっている!」という謎の自信を備えているのである。
やらなければいいのに、やりたくなってしまう
と、まあ他人事のように語ってみたが、実は僕自身、そういう歴史好きの一人だったりする。
好き、というだけでそんなに深い知識があるわけでもないので、専門家相手に臆さず突撃していく猛者たちみたいなことはちょっとできない。見つけられる史実との違いもたかが知れているので、猛者たちから見たらそれはそれはしょぼく見えることだろう。
だったらやらなければいいのだが、それでもやりたくなってしまうのが「史実チェック」なのだ。これはもう、歴史好きの習性と言ってもいいのかもしれない。
誰に頼まれたわけでもないこの点検行為には、何やら不思議な魔力が秘められているのである。
この習性のめんどくさいところは、歴史が絡んでいるどんな物語にも発動してしまうところだ。
大河ドラマのような「史実をなぞっている(ように見える)物語」を相手にするなら、まだわかる。
しかし実際には、そうした「史実レベルの高い作品」だけに反応するわけではないのが、我々歴史ポリスの監視センサーなのだ。
「いやいや、この作品どこからどう見てもフィクションなんだから、史実通りかどうかなんて言っても意味ないでしょ」
と言いたくなるような作品にまで、「史実チェック」を発動さえたくなってしまうのである。文字にしてみて改めて思うが、実にめんどくさい。
紛うことなきフィクションへの不毛な「史実チェック」
少し前に見た、『ノブナガ・ザ・フール』というアニメに対してもそうだった。
タイトルから何となく想像できる通り、この作品には実在した歴史上の人物をモチーフにしたキャラクターが登場する。ノブナガのモデルになっているのはもちろん、織田信長だ。
物語にも一部日本の戦国時代の出来事が取り入れられる部分があって、歴史成分が感じられる作品になっている。
とはいえ、全体を見れば紛うことなきフィクションだ。
何しろ、戦国時代の日本をモデルにした「東の星」に、時代も国もごった煮の、ざっくり「昔のヨーロッパ」をモデルにした「西の星」の人々が攻め込んでくる、というのが作品の大枠になっているのである。
東と西の解像度の違いがまたすごい。「東の星」のキャラクターのモチーフは大半が戦国時代の人物なのに、「西の星」はジャンヌ・ダルクにレオナルド・ダ・ヴィンチ、アーサー王にマゼラン、カエサルまで同居しているという、オールスター構成になっているのである。
こういう作品に、史実との違いがどうのこうの言ったところで何の意味もない。見ての通り、寄せる気など初めからないのだ。
そんなことは百も承知で、それでも何か言わずにいられないのが厄介歴史オタク(というレベルでもないのだが)なのである。
「織田信秀が当主の時代に、武田信玄が尾張侵攻をしてくるのはおかしい」
「家督継承をめぐって信長が弟と争うのはいいけど、その人が暗殺したんじゃないのでは」
「武田家や上杉家との戦いの前に、斎藤家や今川家との戦いがあるはず」
「そもそも、今川家どこ行った?」
繰り返すが、『ノブナガ・ザ・フール』は史実を忠実に再現しようとした作品ではまったくない。
ノブナガがいる「東の星」にも卑弥呼や平賀源内といった全然時代の違う人物をモチーフにしたキャラクターが出てくるし、「イクサヨロイ」というロボット兵器や、サイボーグまで出てきてしまうような作品なのである。
「そんなに額に青筋立てながら重箱の隅突きまくって、一体何の意味あるんだ?」と、自分でも言いたくなる。
史実とかけ離れてきたら、チェックは必要なくなるけど
前半は割と「史実色」を残している『ノブナガ・ザ・フール』だが、中盤以降はそれもかなり薄れていく。
そりゃそうだろう。
この作品の大枠は既に書いた通り、
戦国時代の日本をモデルにした「東の星」に、時代も国もごった煮の、ざっくり「昔のヨーロッパ」をモデルにした「西の星」の人々が攻め込んでくる
なのだ。
これに史実を当てはめられるわけがない。
史実から離れてフィクション全開になっていくと、当然「史実チェック」も働かなくなっていく。純粋に、架空の話として見ることができるようになっていくのである。
史実との違いに目くじらを立てて、ケチ付けなくても良くなるのだ。これ自体は、良いことにも聞こえるかもしれない。
でも、そうなったらそうなったで、今度はちょっと寂しかったりするのである。
いや、本当にめんどくさい。