『NEW GAME!』は高校を卒業してゲーム会社に就職した主人公の涼風青葉が、新入社員として働く日々を描いた物語である。キャラクター班に配属された青葉が、右も左もわからない状態から一歩ずつキャラクターデザイナーとして、そして社会人として歩み始める姿が描かれている。
青葉の出社第一日目から始まる物語には、「新入社員あるある」なんかも盛り込まれている。「社員証をデスクに忘れたままロックのかかった部屋を出てしまい、部屋から閉め出されてしまう」みたいな話もそうだ。この手の失敗、やったことある人、意外といるのではないだろうか。
青葉はコミュニケーション能力が高めなので、「忙しそうな先輩社員に気後れしてしまって、うまく話しかけることができない」みたいな事態は発生しない。「高卒新人」と言えば多くの会社で最年少の立場だと思うが、そんなの気にせずガンガン先輩に声をかけにいける。
実にたくましい。惚れ惚れしてしまう。
青葉みたいに、配属されて間もない時期でも先輩にも臆せず話しかけられる新入社員は現実にもいる。
一方で、まったく真逆のパターンもある。その昔、僕のいた職場に配属されてきたある新入社員がそうだった。
彼のことは、仮に山下くんと呼んでおこう。
山下くんは、本作の主人公涼風青葉とは対極に位置する存在だった。すなわち、コミュニケーション能力に大きな問題を抱えていたのである。
山下くんは、挨拶をしなかった。どの職場でも大抵はそうなんじゃないかと思うが、朝、出社して部屋に入ったら、自分の席に座る前に「おはようございます」という挨拶くらいはするだろう。特定の誰かに向かって、というのではなく、先に出社していた人全員に向かって何となく声掛けをするアレである。
僕の職場でも、大体の人がやっていた。しかし、山下くんはそうではなかった。何も言わずに部屋に入ってきて、気が付くと自分の席に座っているのである。無言のままパソコンの電源ボタンを押し、無言のまま仕事を始めている。
仕事と言っても、山下くんは新人なのでそんなに大したことは任されていない。それでもわからないことはたくさん出てくる。これも新人なら当たり前の話だ。だが、そんなときでも山下くんは、誰かに聞いたりしない。黙ってパソコンの画面を見つめたまま、自分の席に座り続けているのである。
こんな風に書くと、当時の僕たちが新人の山下くんをほったらかしにしていたように聞こえるかもしれない。でも実際は、そうではなかった。彼の指導を担当する先輩社員はしっかりと任命されていたし、山下くんの席だって、その社員の隣に用意されていたのである。
そんな万全のサポート体制のことは、山下くん自身ももちろん知っていた。配属初日に、課長から直々に説明されていたからだ。それでもなお、彼は人に聞くということをしなかった。指導担当の社員が異変に気付いて声をかけたときにだけ、初めて自分が困っていることを訥々と語り始める。でもそうでないときは、ずっと地蔵のごときだんまりを貫き続けていたのである。
「たださあ、何もやらずにボーっと座ってるってわけでもないんだよな」と、指導担当の社員がぼやいているのを聞いたことがある。
「誰かに聞くんじゃなくて、自力で解決しようとしてるみたいなんだよ。この前も画面にいっぱいフォルダ開いてたから、何してんの? って聞いたらさ、ファイル探してるって言うんだよ。○○さん(別の社員)から朝イチで修正をお願いされたファイルが、共有フォルダのどこに保存されてるかわからないから探してたんだと。いや、まあ、きちんと保存場所伝えてない○○さんも○○さんなんだけどさ、でも、オレが声かけたのって昼過ぎよ? つまり午前中ずっと、一人でファイル探しやってたみたいなんだよ」
山下くんの「コミュニケーション問題」は、当然ながら課長にもしっかり届いていた。課長はどうやら「自分が預かった新入社員が、社会人として問題のなる状態のままなのは大変よろしくない」と考えたらしい。
山下くんが配属されて、三週間ほどが過ぎたある月曜日の朝礼のときだった。課長から、週末に思いついたらしいらしいとんでもないひらめきが披露されたのである。
「コミュニケーション能力向上のために、山下には今日から毎朝、一分間スピーチをしてもらうことにしよう」
「いや、無理でしょ」と瞬時に、僕は思った。山下くんは質問だけでなく、雑談もほとんどしないのだ。一緒に昼食に行ったときも、人の話を聞いているだけで自分から喋ることはなかった。
彼はおそらく、「話さない」のではない。無口な人の多くが実はそうであるように、「話すことがない」のである。
そんな彼に、「毎朝一分間、課の全員の前で話をせい」など命じるのは、弾の入っていない銃を持たせた兵士に最前線で戦って来い、というのと同じだ。
これはひょっとしたら何らかのハラスメントになるんじゃないだろうか。止めた方がいいのでは? そう思って指導担当の社員をちらりと見ると、案の定、彼の顔にも「無理だろ」と言いたげな表情が浮かんでいた。その隣で山下くんも、理解できない要求を飼い主に求められた飼い犬みたいに困った顔をしている。
いいのか、止めなくて、と再び指導担当の方に目を向けると、彼はわずかにうつむいて下唇を噛み、眉間に深い皺を寄せながら何かを堪えるように、強く目をつぶっていた。土日に上司が考えたナイスアイディアのお披露目を、部下の自分が台無しになんてできない。そんな内心の苦渋が聞こえてくるような顔である。
そして同時にそれは、彼が山下くんを見殺しにした瞬間でもあった。
かくして翌朝から、「新入社員山下くんによる一分間スピーチのコーナー」が、朝礼内に設けられることとなった。山下くんは、がんばった。一週目は、数少ない学生時代のエピソードを掘り出してきて、披露してくれた。声は小さく、喋り方はたどたどしく、中身もまったくおもしろくはなかったが、僕は毎朝心の中で山下くんに拍手を送っていた。指導担当の彼は、子どもの徒競走を見守る運動会の父親みたいな目で山下くんを見つめていた。
しかし、残念ながら山下くんの健闘もそんなに長くは続かなかった。予想通り、ネタが尽きたのである。
週が明けた月曜日、彼の口から出てきたスピーチは、天気の話だった。翌火曜日も、天気。その次の日も天気で、次の次の木曜日もやっぱり天気の話だった。
そしてその週最後の営業日に当たる金曜日も、山下くんはやはり天気の話題を炸裂させていたのである。
火曜日の段階で、数人の社員が異変を感じていた。水曜日になると、それが全員の共通認識になった。木曜日に四度目の天気の話が始まったときには、数人の社員が失笑していた。金曜日のスピーチが終わったとき、誰かがぼそりと「山下ウェザーリポート」と口にしたのが聞こえた。僕は不覚にも吹き出してしまった。
ただ、この点については多分に同情の余地があると僕は思っている。毎日スピーチさせられていたら、無口な山下くんでなくたってネタ切れを起こすだろう。
僕が感心したのは、ネタ切れ対策に天気を持ち出してきたという点である。これならネタ切れを起こす心配はない。毎日話しても、中身が同じにはならないからだ。話す内容も、朝のニュースで見た天気予報をそのまま使えばいいだけなので、準備に時間も労力を必要としない。
とはいえ、実際にこれをやるにはダイヤモンドのメンタルが必要になる。「また天気かよ」と思われてしまうからだ。内容は変わっても天気は天気である。実際、山下くんも木曜日に失笑を買っている。
もっとも、この点については山下くんはまったく問題ない様子だった。なんと彼は次の週も、天気の話題だけでやり通していたのである。こうなってくるともう、聞いている方からは笑いが漏れることもなく、誰もが虚無の顔で彼の天気予報を聞いていた。「一体これは何の時間なんだ」という疑問が、ほとんどの社員の頭に浮かんでいたと思う。
指導担当の社員は、途中から腕組みをして口をへの字に曲げながらスピーチを聞くようになっていた。その顔は、息子の授業態度がすこぶる悪いことを見せつけられている、日曜参観の父親みたいだった。
朝礼における「山下くんの一分間スピーチのコーナー」は、その後一ヶ月半くらい続いて突然の打ち切りとなった。連日の天気予報にみんな運罪していたからではなく、スピーチ効果によって、山下くんのコミュニケーション能力が劇的に向上したから、というわけでもない。
言い出しっぺの課長が異動となってしまい、朝礼のタイムスケジュールにも変更が加わって、うやむやのうちに消滅となったのである。
事前に告知のないフェードアウトだったが、苦情を申し立てる者はいなかった。
その後も山下くんは相変わらずで、口数は少ないままだったし、挨拶もしなかった。ただ、隣に座っている指導担当の社員に自分から質問をする姿は見かけるようにはなっていた。
ほんの少しだが、確実に前には進んでいる。
元の課長が見たら、「自分がやらせた一分間スピーチのおかげだ」と自賛するかもしれない。
でも実際には、スピーチが始まってからも続いていた、指導担当の地道な働きかけが実を結んだ成果だろう、と僕は思っている。