「知らないことは恥」と本気で思っていたあの頃【ロードス島戦記】

前回も少し触れた、録画した作品がしこたまたまっているHDD。

その中に、『ロードス島戦記』があった。

録画自体は2013年放送のものだったが、制作時期はもっと古い。1990~91年にOVAで発売されているのが初出だから、録画した時期から遡っても20年以上前の作品になる。

1990年は、平成2年だ。東西に分かれていたドイツが再統一されたり、湾岸戦争が勃発したり、ソ連が崩壊したりしていた頃である。

最新のゲーム機はスーパーファミコンで、ドラクエもファイナルファンタジーも、まだ「4」までしか発売されていなかった時代だ。『ちびまる子ちゃん』のテレビ放映が始まった年であり、ポケモンはまだ存在すらしていなかった。

掛け値なし、100パーセント混じりけなしの大昔である。

そんな古の時代に制作された古文書のごとき作品を、10数年前の僕は何を思って「録画しておこう!」と思ったのだろうか。

ここ数年でポンコツ化が一層進み、僕の記憶力は大変情けないものになっている。HDDにパンパンにたまっている作品の大半は、録画の動機が定かではない。「どうしてこれ、録画しておこうと思ったん?」と、昔の自分を呼び出して問いただしてみたくなるような作品も結構あったりする。

でも、この『ロードス島戦記』についてはそうではない。「わかる」のだ。

「覚えている」のではなく、「わかる」。

この『ロードス島戦記』は、僕にとって「見ておくべき作品」だった。だからこそ、録画しておかなければならなかったのである。

名前は知ってるけど、中身は知らない名の知れた作品

『ロードス島戦記』が、僕にとって運命的な作品だった、ということではまったくない。「見ておくべき作品」とか言い出すとそんな風に聞こえてしまうかもしれないけど、実際にはそんな大層なものではなく、「昔の僕が勝手にそういう位置づけをしていた」というだけのことである。

「有名な作品なのに、見たことがない」という事実を、「恥ずかしい」と思っていた時期が僕にはあった。「名前は知っているけど、中身は知らない」という自分の無知を、恥だと思っていたのである。

だからこそ、「有名な作品は、すべて見ておかなければならない」と思っていた。そしてそれは、映画や、小説を始めとする文学作品についても同じだった。古今東西の有名作品は、すべて見たり読んだりしておかなければならない。ほとんど義務のように、そう考えていたのである。

なかなかヤバい考え方している、と今では思う。でも当時の僕は、ガチガチのガチだった。それを達成してやろうと、かなりマジで考えていたのである。

文学作品については、「国語便覧」と『作家の値うち』を使って「読んでおくべき作品リスト」みたいなものまでを作っていた。

『作家の値うち』とは、文芸評論家の福田和也氏によるブックガイドで、その内容は、

純文学とエンターテインメントからそれぞれ50人ずつ、計100人の現役作家を取り上げ、その作品について点数を付けていく

という大胆なものだった。この本を参考に、現役作家の読んでおくべき作品をリストアップしていたのである。

リストには、高得点を与えられていた作品だけでなく、評価の低い作品も加えた。「著者の評価は低いけど、本当にその通りの作品なのかどうかは、自分で読んで確かめなければならない」と思っていたからだ。

「これが、若さか…」と言いたくなるような、気負い方だ。

昔の作家や作品は、「国語便覧」でフォローした。こっちは説明不要だろう。高校のとき、副教材で使ったアレだ。

「国語便覧」には昭和中期くらいまでの文豪と海外の作家が、彼らの代表作と合わせて掲載されていたので、それらを抜き出してリストに加えていた。

こうして完成した「読んでおくべき作品リスト」を片手に、一時期の僕は文学作品を嗜んでいたのである。

我ながら、妙ちくりんなことをやっていたものだと思う。

「やるべき」より「やりたい」が強い

映画やアニメでは、同じようなリストは作らなかった。文学ほどの熱量がなかったから、というわけではない。『作家の値うち』のようなガイドが、見つけられなかったからだ。

似たようなガイドに出会っていたら、嬉々としてリスト作りに勤しんでいただろう。

リストがない代わりに、名前を知っている作品は見つけ次第、見るか、録るかをしていた。

ただ実際のところ、せっかく作ったこの「読むべきリスト」、そんなに消化は進まなかった。リストにない、読みたい作品が次々に出てきて、手が伸びるのはもっぱらそちらの方になってしまったからである。

人間やはり、「やるべき」より「やりたい」の方が強い。

そうして消化が滞るうちに他のことが忙しくなって、激しく燃え上がった熱も段々冷めてきてしまった。せっかく作ったリストはコンプリートされないままどこかにいってしまい、今では当たり前のように「読みたい本」だけを読むようになってしまっている。

映画やアニメも、似たような状況だ。

無駄なんだけど、無駄にはならない

今、振り返って思うのは「見ておくべき」「読んでおくべき」という、お勉強のような態度で映画やアニメや文学作品に向き合おうとしていたことの浅はかさだ。

そんなのうまくいくわけがない。

映画もアニメも文学作品も、基本は娯楽だ。当たり前だが、そもそもが「見ておくべきだから見る」「読んでおくべきだから読む」という類のものではないである。

そこに妙ちくりんな義務感や羞恥心を持ち込んで、「見ておかなければならない」「読んでおかなければ恥ずかしい」と信じていたのは、ちょっとどうかしていたと我ながら思う。

もっとも、ではそうしたイカれた信念がまったくの無駄だったのかというと、そんなこともなかったんじゃないかとも思っている。

「読みたい」「見たい」だけでは巡り合えなかった作品を見つけることができた、というのはもちろんある。

でもそれ以上に感じるのは「わけのわからない情熱に突き動かされて、無謀とも思える目標に向かって本気で取り組んでみる」ということ自体に、それなりに意味があったんじゃないかということだ。

若い頃はそうやって、後から振り返って「意味ないし、バカだったな」と笑えるような事柄に真剣に取り組むことによって、自分の「大きさ」みたいなものを知っていくものなんじゃないかとも思うからだ。

あまりうまく活用できなかった「読んでおくべき作品リスト」だったけど、制作しているときは、これから乗り出す未知の世界への旅を思うようでワクワクした。

試みは失敗に終わったけど、リストを作ったこと自体は今でも良かったと思っている。

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