原作ありの作品は、原作を知らなければ正しい評価はできない?【ジョーカー・ゲーム】

録画した番組がたんまりたまっているHDDの中に、『ジョーカー・ゲーム』というアニメがあった。放送は2016年らしい。どんな理由で録画したのかは、例によってまったく覚えていない。9年も前の記憶など、真夏の昼間にアスファルトにできた水たまりと同じである。とっくの昔に蒸発してしまっている。

作品に関する情報も、もちろん一切覚えていない。でも、そんなことは別に構わないのだ。これまで見てきた他の作品も、大体そうだったのだから。四の五の言わず、見始めてしまえばいいのである。

というわけで、ためらいなくリモコンの再生ボタンを押した。どうやら内容は、昭和10年代前半の実際の世界をベースに、大日本帝国陸軍内に極秘裏に設立された架空の諜報機関の活躍を描いたものらしい。

諜報機関とは要するにスパイ組織のことだが、『ミッション・インポッシブル』みたいな作品とは少し毛色が違っている。トム・クルーズがやっているような派手なアクションはないし、超技術で作られた秘密道具みたいなものも基本的には使わない。スパイと関係のなさそうな話で始まり、それが終盤あたりまで続き、最後の方で種明かしをされてようやく「スパイっぽさ」を感じられるというのが、各エピソード1話、もしくは2話で構成される本作の特徴となっていた。

なかなか凝った作りになっている、と思った。これがオリジナルアニメなら、その評価はそのままこのアニメのものとなっただろう。しかしどうやら本作、原作があるようなのである。調べてみたところ、小説ということがわかった。いくつか文学賞も取っているらしい。

こうなってくると、俄然話は変わってくる。「このアニメが凝った作りになっているのは、元々の小説がそうだからなのではないか」という疑いが生まれてくるからである。もしそれが事実なのだとしたら、「凝った作りになっている」という僕の感想も、このアニメに向けるものとしてはふさわしくないことになる。それは本来、原作に向けられるべきものだからだ。

これは何も、アニメに限った話ではない。映画でもドラマでも同じだろう。原作にある箇所がそのまま使われているのであれば、その部分の評価を負うのは映像作品側ではない。良い評価も悪い評価も、向けられる先は原作側になるはずである。

しかしそうなると、原作のある映像作品を評価しようとする試みは、なかなか厄介なものになってしまう。原作のあるアニメやドラマや映画を「正しく」評価するために、我々は何をすればいいのだろうか。

これはまあ、考えるまでもない話だったりする。何のことはない、原作を読むなり見るなりすればいいのだ。

それもできれば、アニメやドラマや映画を見始める前がいい。一度原作を味わった後であれば、アニメやドラマや映画を見たとき、原作に起因する部分とそうでない部分を見分けることができるだろう。そうして切り分けを行った上で、原作にはなかった部分についてあれこれ言えばいいのである。

原作になかった部分の評価こそが、映像作品側が負うべきものになるからだ。

あるいは原作をどれだけ再現できているか、に光を当ててみてもいい。原作の魅力を損なわずに映像化できているか、それをさらに強く大きくすることができているか。これもまた大事な視点である。映像化が成功裏に終わったのか、遺憾ながら失敗に終わったのかも見極めることができるからだ。

「原作の方が良い」となってしまったら、何のために映像化したのかわからなくなってしまうだろう。しかしこれも哀しい現実で、そういう作品もそこそこあったりするものなのである。

……とまあ、ここまで真正面から正論を振りかざしてきたが、実際にやるとなると、これは実はそんなに簡単ではない。「原作を読む。あるいは見る」と言っても、そのためには多大な時間と労力を必要とするケースもあるからだ。

『ジョーカー・ゲーム』を放送していたのと同じに2016年に、NHKが『戦争と平和』の海外ドラマを放送していた。原作はもちろん、トルストイのあれだ。45分×8話なのでドラマを見るだけならそんなに苦労もないが、これが「原作を先に読んでおく必要がある」となったら、視聴のハードルは一気に跳ね上がる。

果たしてどれだけの人が、この条件をクリアしてドラマを見始めることができるだろうか。

『ジョーカー・ゲーム』も『戦争と平和』もそうだが、「映像作品を見るのは好きでも、小説を読むのは好きじゃない」という人にとって、原作が小説だった場合は困ってしまうだろう。「アニメやドラマや映画を見るときは、事前情報を入れず新鮮な気持ちで楽しみたい」という人だって、いるかもしれない。長編漫画が原作になっている場合は、全巻読破するのにそれなりの費用がかかってしまう。

そうやって「原作必修主義」を続けているうちに、疲弊して「アニメやドラマや映画を見るたびにこんなことをやらないといけないなら、見ない方がマシ!」ということになってしまうことだって考えられる。本末転倒もいいところだ。

そもそも、「正しい評価」とか「正しい感想」とは一体何なのだろうか。

我々は娯楽としてアニメやドラマや映画を見ている。別に評論家というわけではない。そんな我々に、「正しい評価」もへったくれもないのである。好きなように見て、感想でも評価でも好きなようにのたまえばいい。

「あなたがおもしろいと思った部分は、実は原作に起因しているんだよ」と言われたところで、こっちは原作を知らないのである。だったらもうそれは、そのアニメなり映画なりドラマなりのおもしろさということでいいんじゃないだろうか。

もちろんこれはかなりの暴論だ。「正しい感想」には、やっぱりなりえないのだろうと思う。

しかし一方で、「今の僕の感想」としてなら、それで良いんじゃないかとも思っている。原作を知らない「今の僕」が、原作を知らないままその作品を見て思ったことなのであれば、それは立派な感想だ。娯楽なのだから、それで充分なのである。

と、近頃はそんな風に開き直ってみたりしている。

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