今はどうだか知らないが、僕が高校生の頃は「世界史」が必修科目になっていた。
同じ「地理歴史・公民」でも、「日本史」や「地理」はそうではなかった。世界史だけが、特別扱いされていたのである。日本人なら日本史を必修にするべきなんじゃないかと思うのだが、そっちは選択科目にされていた。
必修科目と選択科目では、当然後者の方が重要度が低い。でも、自国の歴史の重要度が低いなんて、そんなことあるだろうか?
この問いに対する答えはおそらく小中にある。日本史は小学校、中学校でも勉強するのだ。だから高校は選択科目でよかろう、ということだろう。
重要度の面でも問題ない。小学校、中学校は義務教育だからだ。
99%近い進学率があるとはいえ、高校は希望者だけが進学するのが基本である。一方義務教育は、その名の通り100%全員が受けること義務付けられている。
希望者だけが進学する学校の必修科目と、全員が就学する学校の科目。どちらが「上」かは、一目瞭然だ。
まあそんなわけで、世界史が高校の必修科目になることに一定の合理性はあるように思える。当事者の高校生からすると、迷惑極まりない話ではあるのだが。
大学入試では使わない世界史
世界史必修化で最も迷惑をこうむるのは、おそらく理系の学生だろう。
大学入試で世界史が必要になるケース、理系ではまずないからである。
「それを言い出したら、古文とか漢文だって同じだろ!」と思われるかもしれない。
私立大学なら、確かにそうだろう。
だが国公立大学を受験する場合は、そうではない。センター試験(現在の大学入学共通テスト)では、国語の受験が求められるケースが結構あるからだ。国語には、当然古文や漢文も含まれる。
「いやいや、そんなこと言い出したら歴史も必要なんとちゃいますの?」
確かに、「地理歴史・公民」が必要になるケースはある。しかしその場合でも、必要になるのは1科目だけだ。受験するのは地理でもいいし、公民でも構わない。世界史どころか、「歴史」を選ぶ必要すらないのである。
地理・歴史・公民というラインナップで最も勉強量が必要なのは「歴史」だから、理系志望の学生の多くは当然歴史を敬遠する。できるだけ少ない労力で志望大学に合格したい、と思うのは誰だって同じだし、それがセンター試験(共通テスト)でしか使わない「前菜」だとしたらなおさらである。
理系クラスの世界史を担当した新任の先生
そんな「使わない」科目が必修として放り込まれてくるのだから、熾烈な受験戦争を戦う高校生サイドとしてはたまったものではない。人生は有限なのだ。時間は有効に使わなければならない。それが大学受験という、限られた時間の中での戦いならなおのことである。
世界史の授業を放棄して、その時間を英語や数学、物理や化学といった理系の「メインディッシュ」の勉強に充てようと考える学生たちが現れるのも自然流れと言えるだろう。
僕の通っていた高校では、世界史の授業は2年生から始まった。そしてまた、理系・文系のクラス分けが行われるのも、2年生からなのだった。
世界史の授業は必修なので、当然ながら理系・文系問わず全部のクラスの時間割に載っている。ただし、そのすべてを同じ教師が担当していたわけではなかった。そのあたりは学校側も「わかっていた」ようで、文系の世界史を担当するのはクラス担任もやっているベテラン教師だったが、理系の世界史を担当するのは新任の、それも非常勤講師だったのである。
露骨すぎる格差であった。でももちろん、そのことに苦情を申し立てる学生などはいなかった。
僕は理系を選択していたので、世界史の授業は新任の非常勤講師・田辺先生(仮)の方を受けることになった。田辺先生は新任なので若いのはもちろんだったが、小柄で瘦せていて、見るからに気が弱そうな人でもあった。そうした見た目の印象に違わず、声も何だか小さくて、本当は人前で喋るのが得意ではないのかな、と思わせることもしばしばあった。
授業の方も新任らしく、初めはとてもぎこちなかった。ただ、では田辺先生の授業が退屈で、聞く価値に乏しいものだったかというと、そんなこともなかった。
理系を選択していたものの、僕は歴史も割と好きだったので、田辺先生の授業も初めから内職をするつもりで臨みはしなかった。一応聞くだけ聞いてみて、おもしろくなかったときに英語や数学の勉強に充てればいい。そのくらいの軽い気持ちでいたのだが、実際にはそちらに舵を切らせないほど、田辺先生の授業は良かったのである。
田辺先生の授業からは、歴史に対する情熱みたいなものが感じられた。「この人はきっと、歴史が好きなんだろうなあ」という感じが、話の端々から滲み出ていた。その楽しさを伝えたいというのが、教師を選んだ動機だったのかもしれない。
話し方が上手でないのは事実だが、板書は教科書の内容をすごくよくまとめていたし、補助教材のプリントなんかもたくさん作ってくれていた。回を重ねるうちに、僕は田辺先生の授業が楽しみになってきていた。大学受験の役には間違いなく立たなかったが、そんなことは全然構わなかった。クラスには僕と同じように、内職をせずに授業を聞いている生徒もごくわずかだがいた。彼らの感想も、きっと同じだったのではないかと思う。
田辺先生の大きな失望
ただ残念なことにそんな田辺先生の熱意も、大半の生徒には決して届くことはないのだった。そもそも授業を聞いていないのだから、どうしようもない。これについては構造上の問題で、田辺先生にはまったく責任がない。大学受験に必要ない科目の、宿命なのだ。
田辺先生がベテラン教師だったら慣れているから、そういう状況に動じることはなかったんだと思う。でも彼は、新任だった。そしてどうやら、理系クラスにおける世界史がどういう扱いを受けているのかも、事前に把握していなかったようだった。
「ほとんどの生徒が、自分の授業を聞いていない」
その厳しい現実は、まだ若い田辺先生の心をじわじわと蝕んでいたようだった。
1学期の終わりくらいから、田辺先生は何だか元気がないように見えた。元々小柄な体が、さらに一回り小さくなってしまったような感じもした。
2学期に入ると、授業にも変化が現れ始めた。あれほどたくさん作ってくれていた副教材のプリントが、まったく配られなくなったのである。板書の内容も、1学期と比べると大雑把なものへと変わっていった。
「授業の質を落としている」と僕は思った。でもそれで、田辺先生を非難する気にはなれなかった。
先生はきっと、教師という仕事に大きな希望を抱いていたのだろう。初めの頃の熱意を見れば、それはよくわかる。教員採用試験に合格できなくても教師の道を続けようとしているくらいだから、それなりに高い志も持っていたんだと思う。「一人でも多くの生徒に、世界史を好きになってもらいたい」とかも、考えていたのかもしれない。
でも現実は、この有様だ。1クラス45人のうち40人は、50分の授業中一度も顔を上げずに、違う教科の勉強に勤しんでいる。
これでやる気を維持し続けろ、という方が無理な話なのだ。
その後
これは一体、誰が悪かったのだろう。
回を重ねるたびに魅力が失われていく田辺先生の授業を聞きながら、僕は考えた。授業をまったく聞いていない、理系クラスの生徒たちだろうか。新任の教師を理系クラスに割り当てた、高校の方だろうか。それともやはり、「理系クラスの世界史」をよくわかっていなかった田辺先生が悪いのだろうか。
大学受験を控えた高校生たちが、時間を可能な限り有効に使いたいと考えるのは当然だろう。理系クラスにベテランを割り当てた場合、文系の方に新任を割り当てることになる。その体制の歪さは、論を待たない。
初めから「やる気のない生徒相手の授業」とわかっていたら、確かに田辺先生の失望はなかったのかもしれない。でもその場合、1学期の授業で感じた先生の歴史への情熱が僕たちに伝わることはなかっただろう。
誰が悪いわけでもないのに、誰かが不幸になっていく。
やがて先生は、板書自体をしなくなってしまった。世界史の授業はただ、教科書を読み上げるだけの時間になってしまったのである。
授業に慣れて少し大きくなっていた先生の声は、元の小さく聞こえづらいものに戻ってしまった。田辺先生の授業を楽しみにしていた僕は、すっかり味気ないものになってしまったその時間をちょっと残念に思いながら、他のクラスメイトたちと同じように内職を始めたのだった。