小学校卒業を間近に控えた6年生の3学期、何かの授業で「中学生になったらやりたいことを発表しよう」ということになった。「そんなもの共有しあったところで何になるんだ」と思ったが、授業でやるというのだから仕方がない。
幸い、ネタには困らなかった。中学校に入ったらやりたいことは、既に決まっていたからである。
「中学に入ったら、バスケットボール部に入ろう」と僕は思っていた。当時好きだったマンガの影響で、バスケをやってみたいと前々から思っていたのである。
発表当日、僕はその希望をそのまま公表した。すると教室は、地震が起こっているんじゃないかと思うくらいの爆笑で揺れた。
無理もない。当時の僕は小太りで背も低く、運動能力もクラスでも一、二を争うほどに低かったからである。
バスケと言えば、野球やサッカーと並ぶ、運動部界の花形の一つだ。その選手に、前述の通りの特徴を備えた僕は最も似つかわしくない、というわけだ。
さらに付け加えると、僕たちが進学する中学校のバスケットボール部は練習が厳しいことでも知られていた。運動音痴で、体育以外にほとんどスポーツ経験もないお前が練習に耐えられるわけがない。そんな嘲りも、その爆笑の中には多分に含まれていたと思う。
でも僕は、そのことで別に恥ずかしさを感じたりはしなかった。そういう反応があるだろうことは、事前に予測できていたからである。誰に何を言われても、自分がやりたいのだから別に良いと思っていた。
噂以上だった練習の厳しさ
そんなこんなでつつかがなく小学校を卒業した僕は、無事地元の公立中学校に進学した。そうして自ら宣言した通り、バスケットボール部に入部届を提出した。新入部員は、僕を含めて9人だった。
小学校での発表会の後、「実はオレもバスケ部に入ろうと思ってるんだ。一緒に頑張ろう」とこっそり伝えてくれた友人もいたのだが、彼は仮入部を経て、練習がマイルドなことで有名な別の運動部に入部届を提出していた。
それについても、僕は大して気に留めなかった。元々あてにしていたわけでは、なかったからである。
バスケ部の練習は噂にたがわぬ厳しさだった。噂以上と言った方が、良いくらいだったかもしれない。
入部してからしばらくの間は、ほとんどボールに触らせてもらえなかった。やっていたのは、とにかく走ることだけである。走って、走って、走って、走らされた。陸上部よりも走っていたんじゃないかと思うくらいに走った。
バスケ部なのに、体育館にいるよりも外にいた時間の方が長かったくらいだ。
その厳しさは、体育館での練習でも変わらなかった。さすがに長距離走らされることはなかったが、その場にとどまってひたすらボールを床に打ち付けるドリブル練習に、二人一組で延々と繰り返すパス練習、プレー中の足さばきを鍛えるフットワークにシャトルランなど、とにかく地味でキツいラインナップがこれでもかとばかりに取り揃えられていた。
最も楽しいのはゲーム形式の練習だ。でも、それは食後のデザートのように、練習の最後の方にごく短く行われるだけだった。それ自体がない日も、ざらにあった。
部活の時間の大半は、ひたすら苦行に耐えるものだったと言っていい。
「部活嫌だな」「練習行きたくないな」
「うまくなりたい」とか「試合に出たい」といった健全な気持ちは割と早い段階で吹き飛んでいた。
自分で望んで入っておいて情けない話なのだが、入部してすぐに、
「部活嫌だな」
「練習行きたくないな」
「天変地異が起こって体育館が吹き飛び、校庭が地割れだらけになった部活中止にならないかな」
という考えばかりが頭を占めるようになっていたのである。
定期試験の一週間前に部活禁止になる期間は、心の底から嬉しかった。部活が解禁になる試験最終日は、試験が終わる解放感よりも憂鬱の方が遥かに大きいくらいだった。
それでも僕は、部活をサボることは一度もしなかった。
「意地があるから」とか「プライドを守るため」とか「練習に真摯に向き合いたかったから」というような、格好いい理由からではない。
サボった後の方が、恐ろしかったからである。
怖すぎた顧問の先生
練習が厳しいことで有名だった僕の中学校のバスケ部は、顧問が怖いことでも知られていた。
そしてこれも練習同様、噂に留まる話ではなかったのである。
僕たちの中学校の男子バスケットボール部の顧問は、小柄で若い、女性の先生だった。おそらく、30歳前後だったのではないかと思う。
男子バスケットボール部の女性顧問というと、未経験者のお飾りを想像するかもしれない。でも、この先生はまったく違っていた。学生時代にバスケの選手だったらしく、技術面の指導もできる先生だったのである。
この先生が、とにかく強烈だった。いつも不機嫌そうに顔をしかめていて、眉間には深い縦しわが寄っている。面と向かうとすごい迫力で、目を合わすことができないほどの圧迫感がある。
気の弱い先輩が怒られて、泣きべそかいているのを何度か見たこともあった。
ほんの少し前まで小学生だった当時の僕に、太刀打ちできる相手ではない。
燃え盛る先生の情熱は、言葉だけに留まらかった。
よく覚えているのは、僕が3年生のときの、ある公式戦の最中だ。
バスケットボールは試合の途中、「タイムアウト」という作戦タイムを取ることができる。そのタイムアウト中に、指示されたのと違うプレーを繰り返していたレギュラーの同級生の頬に、ビンタを食らわせたことがあったのである。
しかもその一撃は、直前にベンチメンバーに目隠しの壁を作らせるという周到な準備を整えてからのものだった。他校の顧問や生徒が見ている場所でやるのは、さすがにまずいと考えたらしい。
ただ、炸裂したときに結構派手な音が響いていたので、相手チームのベンチは気付いていたんじゃないかと思う。
誰に求められていたわけでもない
そんな鬼の顧問からの叱責が、部活をサボった翌日には待っているのである。とてもじゃないが、サボる気分になどなれなかった。ツラくても練習に参加する方が、なんぼかマシである。
まさに「前門の虎、後門の狼」といった状況だ。
「そんなにしんどいなら、やめればよかったのでは」と思われるかもしれない。確かに、今考えるとその通りだと思う。
でも当時の僕には、「やめる」という選択肢は頭に浮かぶことすらなかった。
ツラくてツラくて翌日の部活のことを考えると布団の中で吐きそうになるくらいだったのに、「部活をやめる」という選択肢には至らなかったのである。
何故だったのかは、今もってよくわからない。
一つ確実に言えるのは、「チームのみんなに迷惑がかかるから」ではないということだ。僕が部活をやめたところで、チームには何の影響も与えなかったからである。
それは何も1年生のときだけ、というわけではない。2年生になってもそうだし、3年生になっても同じだった。僕は万年補欠で、1、2年生のときはもちろんベンチになんて入れなかったし、3年生になって初めてもらったユニフォームも背番号は二桁だった。
バスケの背番号は4から始まるのだが、1チーム5人でやるスポーツなので、よほどのこだわりでもない限り主力の3年生の背番号は一桁になるのだ。
お情けで、試合に出してもらったことはある。しかしチームの戦力になっていたとは、とても言えなかったと思う。僕がやめたところで、チームの戦力には何の影響も与えなかっただろう。引き留めようとする人も、いなかったのかもしれない。
それでも僕はやめなかった。
今改めて振り返ってみるとそれは、自分のためだったように思う。
「やっぱりね」と言われても仕方のない結果だったのかもしれないが
結局僕は、3年間部活をやり通した。バスケは大して上手にならなかったし、レギュラーなんて夢のまた夢、ベンチ要員としても物足りない存在のままだった。
小学校6年生のときに僕を笑ったクラスメートたちから見たら、「やっぱりね」と言いたくなるような結果かもしれない。身の程をわきまえない行為というのも、あながち間違った評価とは言えないだろう。
それでも僕は、バスケ部に入って良かったと思っている。
ツラく厳しい練習を恐れたり、輝かしい実績が得られないかもしれないことを心配したりして、「自分のやりたい」から逃げることはしなかったと、胸を張って言えるからである。
パッとしない思い出ばかりの僕の学生時代の中でも、その三年間だけは洞窟の奥で鈍く発光するヒカリゴケのような輝きを放っている。