何でも後回しにしがちなのが、僕の悪いところだ。
用事を頼まれても、大抵の場合すぐに手は付けない。期限が近づくまで意味もなく寝かせておいて、いよいよ尻に火が付き始めたな、と思った頃にようやく腰を上げるのが常となっている。
ふたを開けてみたら思ったよりも時間がかかる内容で、すぐに手を付けなかった過去の自分を恨めしく思いながら大慌てで取り組む、なんてこともざらだ。
それでまだ、期日が決められているものはいい。手を付けるきっかけがあるからだ。
問題は、締め切りのないものの方だ。
果てしなく先送りのできてしまうこれらはいつになっても手を付けず、野ざらしになってしまう。
「録画したけど見ていない番組が、しこたまたまっているHDD」なんかは、その最たる例と言っていい。自分で勝手に録画したのだから、「いつまでに見なければならない」なんていう期限は当然存在しない。そのため10年以上前に録画したまま、一度も手を付けていない作品がゴロゴロしているのである。
昨年末に、一念発起
この状態は、言うまでもないが大変よろしくない。このまま先送りを続けた場合、待っているのは一生見ないまま終わる未来だ。
「せっかく録画したのに、それでいいのか。それは録画という行動をした過去の自分を裏切ることになるのではないか」などという自問をひとしきりした結果、当然の帰結として一念発起し、膨らんだ借金を返済することを決意した。昨年の終わりごろから、HDD内に保存されている作品をコツコツ見始めたのである。
取り組みを始めて、現在八ヶ月ほどが経過している。その間、怠りなく視聴は継続しているのだが、見終えた作品はまだ全体の半分にも達していない。始めたはいいが、思ったより大変な作業だった。
幸いにして、まだ心は折れていないが、定番の「録画してすぐに見ておけばよかった」という夏休み最終日の小学生のような後悔は、毎日のように感じている。
ただしそれは、量の膨大さに圧倒されたことだけが理由というわけでもなかったりする。
作品にも「鮮度」がある
肉や魚、野菜などと同じように、作品にも「鮮度がある」というようなことを、この作業を始めてからより強く感じるようになっている。
映画なら公開されたとき、アニメやドラマなら放送されたときに見るのが一番いい。特にSNSがこれだけ浸透している現代では、その傾向はより強くなっていると思う。最も鮮度が高いときが、その作品を最も楽しめるときでもあるのだ。
HDDの中にあった『ポプテピピック』というアニメを見たときにも、それを痛感した。自らを「クソアニメ」と呼ぶこの作品、内容も、
- 「前半と後半で放送する内容がほぼ同じ」
- 「メインキャラクター2人の声優は毎回変わる」
- 「前半と後半でも変わる」
- 「どちらも若い女性キャラなのに、平気でベテラン男性声優をぶつけてくる」
という、自称に偽りのないものになっていて、あまりのエキセントリックぶりに、見終わった後にはいつも誰かと感想を共有したい気分に駆られる。
だがその衝動を向ける先が、放送からだいぶ時間が経過した今となっては存在しないのだ。
あんまりフォロワーのいない僕のX(旧Twitter)では、旬を逃した作品の感想を呟いたところでほとんど反応はもらえない。世間の熱はとっくの昔に冷めているのだから、当たり前だ。一人で盛り上がって感想を書きあげたところで、前日に終わった祭りの会場で一人踊っているような空しさを味わうばかりなのである。
その時代を生きている人間の「特権」
現代は、「後回し」をするにはとても都合のいい時代だ。録画ができる。配信もある。
「作品を見る」ことだけを考えるなら、放送されているとき、公開されているときにこだわる必要はまったくない。
しかしそれは、放送当時、公開当時に見ることの価値低下を意味しない。
その当時の「リアルタイムな」空気や盛り上がり、それにSNSの反応なんかは、そのときに作品を見ていた人にしか体験できないものだからだ。
そしてそれは、後回しにした人たちだけでなく、後の時代の人たちにも体験できないことをも意味する。
放送当時、公開当時に作品を見ることができ、「リアルタイムな」空気を感じることができるというのは、その時代を生きた人たちの特権なのだ。
「後回し」にするということは、その特権をみすみす逃すということになる。
こんなにもったいないことはない、と思いながら、過去の自分が「後回し」にしてしまった作品を今日も見ている。