「〇話で切る」が何となく苦手な理由

一度見始めた作品は、なるべく最後まで見るようにしている。

「〇話で切る」というのが、何となく苦手だからだ。

「おもしろくないと思った作品を最後まで見るのは時間の無駄だ。人間に与えられた時間には、限りがあるのだから」

その通りだと思う。頭ではわかっている。でも苦手なのだ。わかっちゃいるけどやめられない。無理にやめようとすると、尻のあたりがむずむずして落ち着かない気持ちになってくる。我慢して強引に見るのをやめても、何だかすっきりしなくて結局視聴に戻ってしまう。

ニコチン中毒に似ているのかもしれない。煙草は吸ったことはないので、よくは知らないが。

おもしろい作品でこうなるのなら、少しも不思議はない。でも、大しておもしろいとも思っていない作品でこうなってしまうのだから、我ながら面倒だと思う。

「先の展開」に期待している?

何故、途中で視聴をやめることが苦手なのか。

「先の展開に期待をかけているから」ではない。残念ながら、そんな素敵な夢を無邪気に信じられるお年頃ではない。

威張れるほどではないにしても、それなりの本数の映像作品は見てきている。「今はおもしろくなくても、この先おもしろくなってくるかもしれない」なんていう希望的観測が、いかに空しいものであるかはよくわかっている。大抵の場合、ヤムチャは最後までヤムチャのままだ。途中で悟空やベジータに入れ替わることはないし、覚醒して超サイヤ人になるなんてこともありはしない。

もちろん、すべてがヤムチャというわけではない。ヤムチャの群れに、ナッパと戦っていたころの孫御飯が混じっているケースがある。確率で言うと、年末ジャンボ宝くじで3等を当てるくらいのものだ。

御飯は後に覚醒して、超サイヤ人になる。それはもう、とんでもないくらいに強くなる。それを引き当てることに、喜びを感じる人もいるだろう。知られざるダイヤの原石の発見に優越を感じる気持ちは、わからないでもない。

だが、別に私はそういうのは求めていない。ヤムチャの群れから孫御飯を見つけるつもりなど毛頭なく、御飯が超サイヤ人になってから見つければ十分だと思っている。

「それだと魔閃光をぶっ放してた頃の弱っちい御飯を見逃してしまうのでは?」という心配も、今では無用だ。我々には、孫悟空並に頼りになるあいつらがいる。配信サービスだ。彼らの力を借りれば、後からいくらでも追いかけることができる。

すなわち、「この先おもしろくなってくるかもしれない」というあんまり実現しない淡い期待は、視聴の中断を思いとどまらせる理由にはなりえないのである。

染みついた初志貫徹の精神

では、どこに理由があるのか。

決定的、とまでは言えないまでも、少しは影響を及ぼしていそうなのが「初志貫徹」の精神だ。

いやもちろんわかっている。この四字熟語が、この場で使うのにふさわしくないことは。

初志貫徹の本来の意味は、「初めに決めた志を、最後まで貫き通すこと」だ。だが、アニメやドラマ、映画といった映像作品の視聴は、志と呼ぶには少々軽過ぎるだろう。

ここで言いたいのは言葉の厳密な意味ではなく、一度始めたことを最後までやり通すことを美徳とする、その精神の方である。これが邪魔をして、視聴を途中で打ち切ることにためらいを感じてしまっている部分はあるように思う。途中で視聴をやめようとしたときに、尻がむずむずしたり、全身がかゆくなったり、呼吸が荒くなって脂汗が止まらなくなったりするのも、そのあたりに理由があるような気がする。

ただ、これが一番の理由かというとやっぱり違っている。

初志貫徹の精神が、いかに重要かはわかっている。一方で、それがどんな場面にも通用する万能の心がけでないことも知っている。

映像作品の視聴などは、まさにそうだ。それがわかっていながらもなお、初志貫徹の精神が呪縛となってしまうのは、子どもの頃から聞かされてきたせいもあるだろう。「初志貫徹の美学」がヘンテコな形で、心の奥底に染みついてしまっているのだ。

もっとも、これが簡単には落ちない頑固な染みかというと、そんなこともない。これくらいなら理性の力で克服することは可能だ。ヘビースモーカーだって、一念発起すれば禁煙できるのだ。初志貫徹の精神だって、できないことはないだろう。

「〇話で切る」が苦手な本当の理由は、もう少し別のところにありそうな気がする。

心から「つまらない」と言いたい

途中でおもしろくないと気が付いてしまった作品を、それでも最後まで見続ける一番の理由。

それはひょっとすると、「心からつまらないと言いたいから」なのかもしれない。

作品の評価は、その作品を最後まで見てから行うべきだと考えている。全部を見ないで下した評価など正当とは言えないと思うからだ。

途中で切った場合にできるのは、そこまでの評価でしかない。「〇話まで見たけどつまらなかった」と言えても、「つまらない作品だった」とまで言うことはできないだろう。

だが、それでは駄目なのだ。

「この作品はつまらなかった。頭のてっぺんからつま先まで、純度100パーセントのヤムチャだった」

胸を張ってそう言いたいのだ。

おそらくこれが「何となく〇話で切るのが苦手」な一番の理由なんだと思う。

何故最後まで見るのか

「〇話まで見たけどつまらなかった」と私が言うのも、「(全部見た上で)つまらない作品だった」と言うのも、人から見れば大して変わりはないだろう。名の知れた評論家でもない私がどんな評価をしようと大した意味はないし、何かに影響を及ぼすようなことももちろんない。

自己満足もいいところだ。

ただ、作品に対して厳しい評価をするなら、評価する側もそれなりの態度を持って臨むべきだとは思う。礼を尽くすべき、と言ってもいいかもしれない。「最後まで見る」は、そのために必要な最低限の行為だ。だから私は、おもしろくないと思った作品でも途中で切ることはしない。なるべく最後まで見るようにしている。

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