今回取り上げるのは、『純潔のマリア』(2013年 Production I.G)です。
- 「嫌だから嫌」を押し通すマリア
- キリスト教にもう一歩踏み込む
- ベルナールの目覚め
タイトルを見て、聖母マリアを想起した方もいるんじゃないかと思います。イエス・キリストの母親で、聖書に処女懐胎の記載がある人ですね。
本作の主人公マリアはまったくの別人で、聖母どころか魔女だったりします。ただ、物語の核にあるのはキリスト教なので、あながち間違いとも言えません。
そしてこのキリスト教をきちんと描いているのが、本作のおもしろいところです。
「中世におけるキリスト教とはどのような存在だったのか」がしっかりとした時代考証を元に描かれていますし、「神や天使は、なぜ人間を救ってくれないのか」という問いに対する宗教側からの解釈も返しています。
中世ヨーロッパを舞台とする作品なのですが、キリスト教を「科学的思考が発展していなかった時代の、理解不能な妄信」として片づけたりはしていないんですよね。
こう書くと、小難しく、堅苦しい作品のように見えてしまうかもしれませんがそんなことはまったくなく、エンターテインメントの要素も多分に含まれており、キリスト教に興味がなくても十分楽しめる作品になっています。
この点は、さすが『プラネテス』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』の谷口悟朗監督作品と言ったところだと思います。

『純潔のマリア』概要
純潔のマリア
放送 | 2015年 |
話数 | 全12話 |
制作 | Production I.G |
原作 | 石川雅之(good!アフタヌーン) |
監督 | 谷口悟朗 |
脚本 | 倉田英之 |
キャスト | 金元寿子 日笠陽子 小松未可子 花澤香菜 |
『純潔のマリア』の舞台は、百年戦争期のフランスです。
主人公は、戦争嫌いな魔女マリア。彼女と戦争を止めようとしないカトリック教会、天界との対立が物語の主軸となっています。
魔女や天使が登場するところからもわかるように、ファンタジーです。
ですが、公式サイトに「なぜなに中世事情」というページが用意されているくらい、時代考証に非常に力を入れていて、中世ヨーロッパの人々にとってキリスト教がいかに大きく、絶対的な存在であったかもよくわかるようになっています。
そんなキリスト教と、マリアは対立する存在でもあります。
そもそもマリアは魔女であるため、キリスト教の教えには従っていないのですね。
そしてこの相対する位置にいるマリアの目を通すことで、キリスト教(だけでなく、宗教全体かもしれませんが)の抱える疑問や矛盾が浮き彫りになっていきます。
『純潔のマリア』感想1:「嫌だから嫌」を押し通すマリア

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とにかく戦争を止めさせたいマリア
『純潔のマリア』を見ていて気になったことの一つが、主人公マリアの行動の理由です。
魔女マリアは戦争が嫌いで、使い魔や魔法を使って無理矢理にでも争いをやめさせようとします。
その目的が遂行できてしまうだけの強大な魔力も持っているのですが、ではなぜマリアがそこまで戦争を嫌うのかは、はっきりとは示されないのですね。
現代に生きる我々は、
「戦争は悪であり、絶対にするべきではない」
という価値観を持っているので、戦争を止めようとするマリアの行動に共感はできます。
ただ、マリアたちが生きる中世ヨーロッパでは必ずしもそうではありません。
ガルファや他の魔女たちのように、戦争を決して否定的にとらえていない人たちも少なからず登場します。
それでもマリアは、戦争を嫌い、止めさせようとします。
その頑固さは筋金入りで、大天使ミカエルから人前での魔力の使用を禁じられても止まりません。
魔力の使用がミカエルに知られた場合、命を奪われることになるのですが、それすらも意に介さないかのように、監視役であるエゼキエルの目を盗んで、魔力を使い戦争を止めようとし続けます。
「そこまでして争いを止めたいというからには、何か深い理由や背景、強い信念があるのではないか」
見ている方としては、ついそう思いたくなるところです。
ところが、それについての説明は物語の中には一切登場しないのですね。
そもそも理由は存在しない
マリアの戦争嫌いが説明されない理由は、いたってシンプルです。
誰かに説明できるような立派な理由など、マリアは初めから持っていないからです。
あるのはただ、「嫌だから嫌」という子どものわがままのような感情だけです。
だからこそ、「すべての戦いをやめさせることはできない」というミカエルの指摘に対して理性的な反論を返すことはできないですし、魔女であることを理由に救ったはずの人々から非難を浴びたときには、「私、何をしていたんだろう」と悩んでしまうのですね。
「自分がどうしたいか」が最優先のマリア
「整合性の取れた物語」を見慣れている我々にとって、深い考えや理由のないマリアの行為は不可解であり、違和感の塊です。
しかし個人的には、これはこれで良いのだと思います。
理屈より感情を優先する荒々しさこそが、マリアの魅力だと思うからです。
「やりたいからやる」というのは、人が行動を起こすときの力の源であり、衝動です。
そこに理由や理屈を持ち込むと、元々あった勢いが削がれてしまいますが、マリアはそれをしていません。
自分の内から湧き上がる衝動に、素直に従っているのですね。
他人から見ると不可解としか思えないかもしれませんが、マリアにとっては関係ありません。
重要なのは、「その行動は、自分の意志に基づいているか?」ということ。
そしてこのマリアの行動原理は、『純潔のマリア』という作品の核であるキリスト教との関係にもつながっていたりもします。
『純潔のマリア』感想2:キリスト教にもう一歩踏み込む
中世ヨーロッパにおけるキリスト教
冒頭でも紹介した通り、キリスト教をしっかりと描いているのも『純潔のマリア』の特徴です。
中世ヨーロッパの人々にとって、キリスト教は絶対的な存在です。
「神の教えに従って生きる」というのが、この時代の人々の一般的な価値観ですからね。
作品の中でもそれは描かれていて、荒くれ者のガルファでさえ、修道院の長であるベルナールにはひざまずきます。
例外的な存在がマリアを含めた魔女たち。彼女たちがキリスト教を信仰している様子は見られません。
マリアなどはミカエルに向って、
「神も天使も何もしてくれないから、自分がやる」
と言い放つくらいですからね。
神は人を救わない
ただ、ここが「一歩踏み込んでいる」と感じた部分でもあるのですが、『純潔のマリア』はここで終わりません。
神や天使を批判するマリアに対して、大天使ミカエルは、
「天の教会にとって最も重要なのは、地上の秩序を守ることだ」
と言います。
人間たちが戦争をすることは秩序を乱すことにはならないので、止める必要がない
というわけですね。
戦争によって苦しむ人や悲しむ人がいても、それは秩序の範囲内なので干渉しない。つまり、神や天使は人間を救ってはくれないのです。
彼らが干渉するのは、彼らの考える秩序が乱される場合のみ。
そして強大な魔力を使用して戦争を止めようとするマリアこそが、彼らにとって秩序を乱す存在そのものというわけです。
人間には理解できない領域
ミカエルが示した「天の教会」の方針は、人間の立場からするとまったく納得感がないし、理解もできないものです。
神は人を救わないのに、どうして人は神を信じなければならないのか。
それに対する答えとも取れる説明が、第6話、エゼキエルからの問いかけに対するミカエルの回答の中に登場します。
「獣たちは人が城を建て土地に線を引き統べる理由を知らない。興味もない。同様に人にも到達しえないものは無数にある」
獣たちには理解できなくても、人間の行為(城を建て土地に線を引く)には意味も理由もある。
同様に、人間には理解できなくても神の行為(人を救わない)には意味も理由もあるのだから、人間はおとなしくそれに従っていればいい、というわけですね。
言うまでもなく、この説明はとんでもなく傲慢です。
神や天使の態度がこんなありさまだと、ますますマリアの方を支持したくなります。
しかし一方で、これって実際に宗教側が神(天上の主)と人間との関係を説明するために使われている理屈なんじゃないか、という気もしてくるんですよね。
一応の筋は、通っているからです。
そしてまた、この傲慢さこそが本質でもあるのではないか、とも思えてくるのです。
このように、『純潔のマリア』では宗教に対して不可解と思える部分を放置したり、一方的に否定して終わりにするのではなく、きちんと答えを返しています。
この点が、「一歩踏み込んで描いている」と感じたところになります。
『純潔のマリア』感想3:ベルナールの目覚め
敵役として登場
町の修道院の長として登場するベルナールもまた、中世ヨーロッパという時代背景を考えると興味深い存在だったと思います。
ベルナール自身はアニメオリジナルのキャラクターで、マリアを陥れる敵役としての出番が多い人物でした。
個人的に興味をひかれたのは、最終話での「彼の目覚め」です。
悪魔や天使を必要としない信仰
マリアの敵役としての立場にあったものの、もう一つ何を考えているかわからないところもあったベルナール。
キリスト教の教えに従わないマリアとの会話に感化された彼は、第12話(最終話)において、
悪魔や天使を必要としない、理性によって神を認識する新しい信仰
という考えにたどり着きます。
ここで注目すべきなのは「理性」に焦点を当てている点です。
中世ヨーロッパ以前の人々にとって、「神の教えに従って生きる」というのが当たり前でした。
ベルナールもまた、そうした時代の人間です。
しかしながら、この考え方は現代では決して一般的とは言えません。宗教改革などを経て、人々の考え方は変化してきているからです。
「理性に従って生きる」というのは、そうした変化の途中に現れる考え方の1つです。
「神の教え」ではなく、「人間の理性」を信じるというわけですね。
最終的には、「理性」を持つ人間が、神から世界の主人の座を奪い取るところまで進んで現代へとつながっていくのですが、ベルナールの考えは「信仰」の範囲に留まっており、そこまで進んではいません。
それでも、近代の萌芽を見せていたとは言えるでしょう。
ベルナールは修道院の長でありながら、宗教から脱する考え方の第一歩にいち早く踏み出したのですね。
ミカエルにとっての脅威
『純潔のマリア』の世界で、圧倒的な力を誇る大天使ミカエル。そのミカエルにとっての最大の脅威は、マリアや魔女たちではなく実はこのベルナールの目覚めだったりもします。
ミカエルの未来を暗示しているのが、「忘れられた古い神」ケルヌンノスですね。
ケルヌンノスがうごめく黒い影として描かれていることからもわかるように、人々から忘れられた存在になると、力はおろかその姿すら失うことになります。
ベルナールは、理性によって神を認識する信仰に辿り着きました。
人々が彼と同じように理性に目覚めると、ミカエルもまたケルヌンノス同様「忘れられた存在」となります。
ベルナールの目覚めた新しい信仰は、天使も悪魔も必要としないですからね。
実際にミカエル自身に脅威が及ぶところまでは『純潔のマリア』の中で描かれてはおらず、ベルナールもミカエルの手によって塩にされてしまいます。
ただ、そうした「行く先」を想像させる要素を盛り込んでいるにも、おもしろさを感じました。
『純潔のマリア』感想:まとめ
『純潔のマリア』は、キリスト教について一歩踏み込んだところまで描いているところに、おもしろさを感じました。
最後は「愛で全部解決」のようになっていましたけどね。
色々と考えたくなる作品であることは、間違いないと思います。
原作は未読なのですがアニメとはストーリーが違うようなので、気になるところです。
今回は、以上です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。